旅作りのヒント【こだわりの旅】

南米ペルー家族旅行
目指せ、貧乏バックパッカー!

Since : 2001/05/07
Last update : 2001/08/17


ここ数年は、レンタカーを借りて巡ったり、1箇所滞在型の便利で楽な旅が多かったので、また学生時代みたいに列車やバスを乗り継いだり歩いたりして安宿を探しながらの旅をしてみたくなりました。そこで、今回のペルーの旅では、家族旅行でどれだけ「貧乏バックパッカー」の旅に近づけるかをテーマにしました。

マチュピチュまでの遠い道

貧乏バックパッカーにとって、マチュピチュは遠いです。

4月8日(日)

まずニューヨークを夕方発ち、ヒューストン乗換でペルーの首都のリマまで夜行便で飛んで朝5時に着きました。空港で4時間以上待って国内線でクスコまで1時間。普通は、クスコから日帰りのツァーでマチュピチュを訪れる人がほとんどなのですが、これは$100くらいする上に、マチュピチュには4時間くらいしかいられません。貧乏バックパッカーになりきった我家は、地元の人が利用するバスで行くことにしました。

バスは時刻表などなく、とにかく満席になれば出発というのを朝から晩まで繰り返しているようです。1人$1ちょっとでまず2時間もバスに乗って、ウルバンバという村まで来ました。その先は、バスの代わりにミニバンが、もうこれ以上は1人も乗れないというくらいギッシリ人が乗っては出発という感じで、1人35セントくらいでさらに小1時間乗ってオランタというとても小さな村まで来ました。どちらもバスの中の人は、スペイン語が分からない旅行者にいろいろと親切にしてくれました。オランタの先は、もうバスや車では行けません。ここでまず1泊です。

オランタにも遺跡(写真)があり、急な石段をフーフー言いながら登って見学しました。遺跡から見るまわりの山の景色(写真)が素晴らしいです。

オランタから先、マチュピチュに行くには、鉄道だけが交通手段です。そのため鉄道会社が独占をいいことに、1時間乗るだけなのにバスに比べると途方もない1人往復$55も観光客から取ります。地元の人のための列車なら$10なのですが、ペルー国民であることを証明しないと切符は買えないようです。その2つの間に「バックパッカー・クラス」という列車が日に1本だけ走ってるのを見つけ、$25で翌日の切符を買いました。

4月9日(月)

オランタのホテルは、鉄道駅のホームに隣接していて、泊まった部屋の窓から見下ろすとホームと線路が見えます。列車が入る頃には、近くの地元の人が乗客にいろんな物を売ろうと集まってきます(写真)。その1人から買ったゆでトウモロコシが無茶苦茶おいしかったです。1粒1粒が日本の倍から数倍の大きさがありました。

オランタからマチュピチュのふもとの村まで列車で行き、そこからマチュピチュまでは今度はバスです。バスは往復で$8くらい、30分つづら折りの坂を登ります。そしてようやくマチュピチュに着きました。(入場料$20)

大変な貧乏旅行の記録読みました。4人誰も悲鳴あげませんでした?

皆、順番に悲鳴あげました(笑)。おいおい書いていきますが、第1号はマチュピチュの後半、息子がだんだん元気がなくなってきました。

スペイン語圏でどうしたら切符の値段とか交渉できるんですかね。

数字だけはスペイン語を覚えました。貧乏旅行にはこれが役立ちます。

食事はどうしたんですか。

たいてい泊まった所は朝食付きで、夕食はレストランで食べて、昼食はレストランだったり果物やパンなど買っておいたのを食べたりでした。マチュピチュの時の昼食は、バスに乗る前にお店で急いで買ったバナナ1人2本でした。バナナは4本で1ソル(ペルーのお金の単位で約35円)でした。飲み水はいつもたっぷり持ってて、高山病の予防にもなるのでたくさん飲みました。

マチュピチュ

マチュピチュは、蛇行する深い谷底を見下ろし、尖った山を見上げ、谷の反対側の山を眺める、そんな所にありました。とにかくこの辺りの地形はおもしろいです。谷の深さ山の高さ斜面の急さはすごいのですが、かと言って荒々しさ険しさ冷たさはあまり感じません。ちゃんと緑があるからじゃないかと思います。

マチュピチュの真中の草の広場にリャマが3匹くらいいました。とってもおとなしくて、近づいても触っても平気みたいです。何となくとぼけたような愛嬌のある顔をしていて、何の苦労も悩みもなく毎日平穏無事に幸せに暮らしてるって感じの動物でした。

写真の奥の山に登りたい気持ちも少しあったのですが、登って降りてに3時間くらいかかるので登ると遺跡を隅々までじっくり見れないし、標高が高いから動き過ぎると高山病になりやすいので、登るのは止めときました。

娘はマチュピチュが期待や予想以上にずっと良かったらしく、マチュピチュのことだけでその日の日記に12ページも書いてました。(私と娘の2人はいつも旅行中に日記をつけてます。) 

リャマって草を食べているんでしょうか?そこの人達が飼ってるんですか?

草を食べてます。ヒツジとラクダを足して2で割ったような感じの動物でした。たぶんたいていのリャマは誰かの家畜なんだと思うけど、マチュピチュにいたのは野生か飼われてるのかどっちかなあ。

寒さとかは気温差があるとか?着るものは捨てても良いものを持っていくと聞いてましたが、正解でした?

防寒対策はしっかりしていったので、寒いことはありませんでした。本当に寒い〜というほど寒くもならなかったです。捨ててもいい着る物を多く持っていったので、一度も洗濯しないで済んだし、だんだん荷物が少なくなっていくので、まあそれなりに正解だったと思います。

ラピュタの街クスコへ

マチュピチュを歩き回ってる途中で、それまで元気だった息子が急に頭が痛くなって身体全体がだるくなって、ふもとの村で夕食を食べた時も食欲がないし、どうも熱っぽいようです。風邪かもしれないし、高山病かもしれません。薬屋を見つけて高山病に効く薬を探したけどそこには置いてありませんでした。日が暮れる頃、列車でオランタの宿に戻りとにかく休みます。

クスコは標高3300mで、飛行機でここに来ると急に高度が上がるので多くの人が多かれ少なかれ高山病の症状(倦怠感、頭痛、食欲不振、不眠など)を経験するそうです。我家は、1日目にちょっとハードだけどクスコで泊まらずクスコより高度が低いオランタ(標高2800m)まで行って、少し身体をならしてからクスコに戻る計画でした。

4月10日(火)

翌朝、予定ではクスコに行くのですが、息子の調子では、あのハードなバスを乗り継いでクスコに行くのは無理そうです。もう1泊オランタに泊まることになるかなあと思っていたら妻から名案「タクシーでクスコまで行こう!」すっかり貧乏バックパッカーの頭になっていたので、そういう考えが浮かびませんでした(笑)。英語とスペイン語が出来る宿の人に、ガイドブックで目星を付けておいたクスコの安宿に電話してもらい、部屋が開いてることと朝からチェックインさせてもらえることを確認してタクシーも手配してくれました。タクシーは2時間も乗るのに$23で思ったよりずっと安かったです。

宮崎駿のアニメ『天空の城ラピュタ』でバズーが住んでる街のモデルとなったのがクスコだそうです。狭い急な坂の両側に家が並んでる様子(写真)はよく似ていました。

今度のホテルは全く英語が通じなくて、トイレ・シャワー付きのツインルームを2つ借りたのですが、シャワーのお湯もなぜか出ませんでした。でも明るいパティオ(写真)があってなかなかいいところです。写真の奥の2つのドアが泊まった部屋です。1泊1部屋$14くらいでした。

大ちゃんは低い所に戻って直ぐ良くなりましたか。

オランタ(2800m)からクスコ(3300m)に移動したので、逆に高度は上がることになります。その後、さらにティティカカ湖に行くと富士山頂上より高くなります。

クスコにて

クスコの次はティティカカ湖まで高原列車で丸一日かけて行くのですが、この列車は月水金土曜日しか走ってません。今日は火曜日。翌日の列車をのがすと、クスコに3泊して金曜日の列車になります。息子が「乗り物に乗ってる分には大丈夫だから明日の列車に乗りたい」と言うので、駅まで切符を買いに行きました。

高山病にならないように努めてゆっくりと30分くらいかけて駅まで歩き、明日の列車に席があるか聞くと、1等は満席だけど2等ならあるとのこと。貧乏バックパッカーには2等で十分です。薬屋で高山病予防の薬も見つかり買いました。

お昼は息子がホテルで休んでる間にペルー料理を食べて、息子には日本食のレストランを見つけておかゆを作ってもらい持って帰り食べさせました。

妻もクスコに来て高度が上がったせいかあまり動きたくないようで、午後はクスコの市街見物を娘と2人でしました。教会やインカの石組み(写真)を見た後、タクシー($1.5)で近くの遺跡(遺跡)まで行きます。遺跡は階段もあり、空気が薄いのでちょっと登ると、心臓のあたりが熱くなってかなり負担がかかっているのが分かりました。ここは高台にあり、クスコの街を一望(写真)できました。もうすぐ日が暮れる頃、ホテルまで帰りは下り坂なので歩いて帰りました。

夜は、息子もだいぶ元気になって、4人でペルー料理を食べに出ました。スープやピラフのようなのが特においしかったです。高山病に効くコカ茶(写真)というのも努めて飲むようにしました。コカインの原料にもなるコカの葉を煎じたお茶で、特別おいしくはないけど飲みやすいです。アルコールは高山病によくないので、低地に降りるまでは残念ながら飲めません。

ガイドブックで調べてあるから決めれるのですよね。英語で書いてあるガイドですか。

そうです。さすがにこういう国となると「地球の歩き方」だけじゃ情報が不充分なので、英語のバックパッカー用のガイドブックも1冊買って持って行きました。

コカインという言葉にはびっくりしますが、飲んで大丈夫なんですね?良い飲み物として(高山病予防)利用されてるんですね。

これはもちろん飲んで大丈夫です。現地の人は、高山病にはこれが一番だと言ってます。現地の人(今から渡るタキーレ島の人)で、肉体労働をする人は、コカの葉を口に入れて噛むそうです。それは何か恐そうなので、コカ茶にもたくさん葉っぱが入ってたけど、それは口に入れませんでした。

高原列車の旅

4月11日(水)

朝、タクシーで駅まで行って、列車に乗りこみました。1等が4両、2等は最後尾に1両。ところが、車両自体も車内のシートも、全く1〜2等で差はなし。どうも1等($30)と2等($19)は食事代が含まれているかどうかの差だけみたいです。

定刻朝8時に列車は出発して、川沿いにだんだんと上って行きます。クスコ市街を抜けると草原が広がり、リャマの群れを見るようになりました。雪山も現われます。2等でもちゃんと食事や飲み物の注文を取りに来てくれました。うちは昼食は途中の駅に止まった時にきっといろんな物を売りにくるであろう現地の人から買うつもりだったので、コカ茶だけ注文しました。

長い1日なので、子供達にトランプの「ナポレオン」を教えたら、それにすっかりはまって、何度も何度もやりました。今日の路線で一番高度の高い所は、標高4500mもあります。そのあたりで、皆でじっと席に座ったまま脈拍を測ったら、全員毎分100拍以上ありました。

思ったより駅に止まらないし止まっても物売りがいなかったりで遅いお昼になりましたが、ようやく途中駅で売りに来た人から手作りパイと甘いパンのお菓子を買って食べました。なかなかおいしいです。

最後の方はティティカカ湖のすぐ際を走り、定刻より2時間以上遅れて暗くなった夜7時頃に終点プーノ(標高3800m)に着きました。貨車に預けさせられたリュックを受け取って駅を出ると、ホテルや旅行エージェントの客引きの群れに取り囲まれます。今日の宿はまだ予約してなかったのですが、ガイドブックで目星を付けておいた第1候補のホテルの名前をかざした客引きがいたので、その人にホテルまで連れてってもらいました。トイレ・シャワー付き4人部屋(ベッドは5つ)が$17です。やっぱり2部屋に分かれるより、同じ部屋の方が楽しくて便利です。

お湯が夜は7〜9時の間しか出ないとのことで、先にシャワーを浴びて、夕食を食べに出ました。ガイドブックでおすすめだったレストランが見つからず、適当な所に入ったら、ここはちょっとはずれでした。でも息子もまたすっかり元気を取り戻したようで一安心です。

脈が速くなるのはすごいけど、現地の人は慣れてるんでしょうか?その土地に合った心臓持ってるのかなあ?

きっとそうなんでしょうね。でも現地の人でも、しばらく低地にいてから高地に戻ると、やっぱり高山病の症状が出ることがあるらしいです。

浮いてる島「ウロス島」

4月12日(木)

富士山より高いところでしたが、高山病予防薬が効いてるのかオランタとクスコで身体が慣れたのか、夜も問題なく眠れました。でも薬の副作用でたまに手足が少ししびれた感じがします。

今日はボートでタキーレ島に渡ります。ペルーのお金が底をついてきたので、両替できる所を探しながら港に向かって歩いていきました。最初は雑然とした路上の市場(写真)を抜けて行きます。結局、両替できるところは見つからず、息子がまだ病み上がりなので、途中から人力自転車タクシー(写真)2台に2人ずつ乗って港まで行きました。

タキーレ島に渡るボートは、昨晩プーノの駅に着いた時からあちこちの旅行エージェントがうちのツァーにしないかと声をかけてきてましたが、港で直接ボートを見ながら決めたかったので全部断ってました。港に着くと、さっそく「港のジョン」(ホアン・デ・プエルト)と名乗るおじさんが声をかけてきました。ボートを見せてもらい、内容も料金も良さそうだったのでそれに決定。

まずは出港後45分くらいでウロス島という島に寄りました。この島は、何と文字通り浮いてるのです。葦を積み重ねた土台に、葦で小屋を建てて、葦で船を作って、それが集まって村が出来て、家畜を飼って、漁をして、観光客相手に民芸品を売って、そういう生活が全てティティカカ湖に浮いているのです。

そのユニークさが今回の旅行の中で一番印象に残ったことでした。(妻、息子もそう言ってます。娘はマチュピチュが一番でした。)

大きな島もあれば、一坪くらいの小さな島もあります。小さな島には、ブタが数頭放たれています。ブタは逃げようにも逃げられません。ブタ専用の島です。それがプカプカ浮いています。

島の人が漕ぐ葦船に乗って、隣の浮島に渡りました。この葦船(写真)がまたとってもいいんです。船首には飾りの顔がついています。子供達はこの船のミニチュアをおみやげに1つずつ値切って買いました。この模型もちゃんと同じ葦で出来ていて顔もついています。

島の上を歩いてると、場所によっては足がかなり沈んで、じわーと水がしみてくるところもありました。

タキーレ島の試練

船はウロス島を離れて、両側に葦が生い茂る間の水路を、葦をスクリューにからめないように右に左に避けながら進みます。船首に座った人が水の中を覗き込みながら、手で右・左と合図するのを見て、船尾の人が舵を取ります。

ようやく葦のない開けたところに出て、そこからはタキーレ島に向かってひたすら進みます。ウロス島から3時間くらいでようやくタキーレ島に着きました。(写真:港)しかしまだ到着ではありません。これから今回の旅の最大の試練が始まります。港から島人が住む村まで、500段以上の石段を登って行かないといけないのです。しかも、富士山の頂上よりも高度の高いところです。たいていの人は日帰りですが、我家はこの島に泊まるつもりなので、荷物を全部詰めたリュックまでかついでまま登らなくてはいけません。

妻はリュックを現地の子供に持ってもらうことにしましたが、残りの3人は自分達でかついだまま登り始めました。ゆっくり登るけど、すぐに苦しくなるので休み休みです。また心臓が熱くなる感じがしました。空気も乾燥しているので水もよく飲みます。妻のリュックを持ってくれてる子供はさすがに全然平気で、こっちが何度も休むからそのたびに待たされて退屈そうです。

一番元気だったのは病み上がりのはずの息子でした。朝食をあまり食べなかった娘もエネルギー源が身体になくて、かなりきつかったようです。妻は、同じボートで着いたグループの最後尾をもう一人大きなリュックを背負ったおばさんと抜きつ抜かれつしながら登りました。

ようやく坂を登りきった所にある石のアーチ(写真)をくぐりました。真っ青な空に真っ青な湖がきれいです。

リュックを持ってくれた子供は私を物陰に引っ張って行ってチップをくれと要求します。ペルーのお金は、細かいのが2ソルしかなくて、2ソルじゃ申し訳ない気がするので、ドル札で$2(7ソル)渡そうとしたら、首を振ります。やっぱりドルじゃまずいよなあと思い、10ソル札を渡しました。ガイドブックに荷物は10ソルで運んでくれると書いてありましたが、港の人は2〜3ソル渡せばいいと言ってました。物価感覚からすれば、10ソルはたぶん子供にはあげすぎだったのだと思います。その子が私を物陰に連れて行ったのも、島の大人が見てるところで多額のチップを要求してもらうのは気がひけるからだったのでしょう。

妻もようやく登りついて、同じボートで着いた人は、1つの家の中の食堂にそろいました。ガイドの人がタキーレ島の説明を始めました。お昼はその後のようです。娘はお腹を空かせきっていてかわいそう。説明は結構面白くて、男性の島人はかぶってる帽子の模様で独身かどうか分かるし、女性は黒いマントのかぶり方で分かるそうです。娘は待ちきれず、途中から持って来たバナナを食べ始めました。その後、実際に観察していると、男性の帽子は説明通りでしたが、小さな女の子はかぶり方が楽な既婚者かぶりをしてるみたいでした。カラフルな織物を使った民族衣装は島の景色にも似合い、とてもいい感じです。

ようやくお昼ご飯となり、スープ、湖で採れたマスのムニエル、ポテトフライ、コカ茶の定食が8ソル(320円)でした。どれもおいしかったです。

空気が薄い上に500段??ハァハァ言うわ読むだけでも・・。勿論こういう旅だ、と皆知っていて実行したんですよね? 偉い!!

500段登らなくてはいけないことは、オランタかクスコにいる時に皆に言いました。すぐに妻は「じゃあ、タキーレ島なんか行きたくない」と言ってましたが、子供達は「行きたい、行きたい」と言い、その後、日が経つにつれて、妻もだんだん覚悟を決めて行ったようです。

普通の山でもきついのにね。「死ぬかもしれない」見たいな事は考えてないですよね。

富士山より高いプーノで1晩過ごした後でも、四人とも高山病の症状がなかったので、決行しました。手足が時々しびれる副作用はありましたが、高山病の予防薬も皆きちんと飲むようにしました。出発前に、ペルーで高山病にかかった人の体験談をたくさん探して読みましたが、その中では、死んだり後遺症が残った人はいなくて、最悪でも飛行機でリマへ緊急移送して入院だったので、それに備えてそういうのがカバーされる旅行保険には入っておきました。

現地の子は学校など行ってないのかしら。良く働きますね。

木・金が、ちょうどペルーの祝日だったので、どっちみち学校は休みの日でしたが、島の子供達の教育がどうなってるのかはよく分かりません。たぶん、勉強はしてるんだとは思いますが、島の中を歩いた範囲では学校らしきものは見当たりませんでした。

物価が信じられないほど安いですね。普通でいくとそうではないんですか?

パッケージ旅行だと物価の安さを感じる機会が少ないだろうなと思います。タクシーも、こちらからいくら?と聞くと旅行者だからふっかけられるかもしれないので、あらかじめ英語の出来る現地の人に相場を聞いておいてから、タクシーを停めて「どこどこ(行きたい所の名前)、いくら」とこちらから料金を言います。(タクシーにはメータは付いてません。)運転手は、それでOKの時もあれば、1〜2ソル上の料金を言ってくることもあります。港まで数百m乗った人力タクシーは、1人1ソル(35円)でした。

他の旅行者は何処の国の人かしら、日本人はどうでしたか?

ティティカカ湖で日本人旅行者には会いませんでしたが、一人日本人のガイドのような人がいて、島で歩いてる時にいきなり「こんにちは」と言われてビックリしました。旅行者はフランス、ドイツ、アメリカ、ブラジル、いろんな所から来てました。

遅いお昼ご飯は良いメニューのようですね。おいしかったでしょ。でも安心して食べれますか?衛生面とか。気にしてたら何も出来ないけどね。

旅行中、生野菜や氷は避けてました。と言っても、付け合わせのちょっとしたトマトやレタスなんかは食べちゃいました。

タキーレ島の昼下がり

昼食が終わると、ボートのガイドの人が、泊まる部屋がどんな所か見せてあげると言うので着いて行きました。2つベッドが入った部屋が隣り合っていて、ベッド以外には電気も水も何もありません。ガイドの人は、日帰り客を連れて帰るために「グッド・ラック」と言い残して去って行きました。

さあ、もう英語が通じる人はいません。そう言えば、ガイドの人は、泊まる部屋の見本(サンプル)を見せてあげると言っていたような気がします。この部屋をそのまま使っていいのかどうかもよく分かりません。

ペルーに着いて以来、次はどこに行く次は何をするという感じで何となくずっと忙しかったのが、ここでようやくのんびりする時間が出来ました。全長6キロ幅1キロの小さな島の中に明日の昼までいるので、時間はたっぷりです。とりあえず、のんびり島の中を歩いて、景色のいい所に腰をおろしたいなあと思いました。

リュックは部屋に残して、ドアには鍵がないので、持って来たチェーンと鍵で念のためドアをロックします。こんな田舎の島の中で、そんなことしたくない気持ちもありますが、万一後でやっぱりしておけば良かったとは思いたくないです。

島の中の道をぶらぶら歩きました。まだ、何となく島全体がよその家で、お邪魔してるような気分がして、この道を歩いてもいいのかなあ、すれ違う島人に何か言われないかなあと、落ちつきません。でも、途中で出会った島人と「オラ(やあ)」とか「ブエノス・タルデス(こんにちは)」とかあいさつをかわすうちに、そういう気持ちはいつのまにかなくなりました。

石垣を飛び越えて逃げないようにするためか、4本足のうちの2本をヒモでしばられたヒツジがいました。いろんな花も咲いててきれいです。石を積んで作った小屋の遺跡もありました。岩に登って座って今までの日記を書いたりしました。

そうだ、そう言えば、港からの坂を登りきった所で、島に泊まりたい人が登録する所がありました。ガイドブックでも、そこでお金を払い、誰の家に泊めてもらえるかを決めてもらうことになってました。ガイドの人が後でいいからと言ってたので、着いた時は登録しなかったのですが、そこに行って見ると、すでにボートが着いてからはるかに時間がたってるので、誰もいませんでした。

写真の岩が重なり合って、鳥居の様に見えて、人工的に作ったように見えますが自然に出来た物ですか?

これは人工です。上にも書いたけど、島のあちこちにありました。でも、それぞれのアーチの上にはいろんな違う石の像が乗ってました。

タキーレ島の夜

夕方、今度は島の奥の方に散歩に行くと、途中で年配の島人のおじさんが握手を求めてきました。お昼を食べたのもリュックを置いてきた部屋も、どうもそのおじさんの家のようです。「夕食もうちで食べるね?」と聞いてるようなので、うなずきながら「シー」(スペイン語でYes)と返事します。

一応、我家があの部屋に泊まることはちゃんとしかるべき人に認知されてることが分かって、夕食もちゃんと用意してくれそうで、ホッとしました。まだよく分からないのは、宿代をいつ誰に払うのかですが、成り行きにまかせることにします。

歩いて行くと、島の一番中心地らしい広場に出ました。そこには教会もあり、教会の入口には島の男の人が何人か集まって井戸端会議してる雰囲気です。広場で遊んでる子供もいます。「教会の中に入っていいですか?」と身振りで聞くと、ニッコリと「どうぞ」という返事が身振りで返ってきました。

暗くなる頃宿に戻り、電気がないのでろうそくに火を点けます。ろうそくは意外と明るくて、いい雰囲気です。7時になって食堂に行くと、フランス人のカップルもいて一緒に待ちました。しばらくして女の人が出てきて、スープとトルティーリャがあるけどどちらにするかと聞いてるようです。昼食の定食の量から考えて、3人分を4人で食べれば十分そうだったので、スープを2つとトルティーリャを1つ頼みます。トルティーリャとはいったい何なのか楽しみでしたが、ライスも入った平たいオムレツのような感じでなかなかおいしいです。

隣のフランス人のカップルは、2人ともスープもトルティーリャも注文したようで、両方とも食べています。さて、メインは何が出るのでしょう。ずっと待つけど次が出てきません。時々台所に続くドアが開いた時の中の様子では、もう何も作ってる気配はありません。ひょえ〜、じゃあスープもトルティーリャも4人分頼めば良かったけど、もう後の祭りです。

昼食の時は食後にすぐお金を集めに来た人に払ったのですが、夕食の分は明日発つ時にまとめて払えばいいのかなあと思って、食堂を出ようとすると、さっきの女の人がちょっとあわてた感じで出てきて「ラ・クエンタ」(勘定)と言うので、そこで払いました。

う〜、お腹すくなあ。持って来たフルーツやクラッカーを部屋で食べてしのぎます。

すっかり暗くなると、空気の薄い高い所でしかも電気がないから・・・満天の星が★すごい★です。天の川がくっきりと流れ、南十字星がひときわ光っています。月も出ていなかったので本当に星がきれいでした。

夜の寒さが心配でしたが、用意してある毛布を全部かけて寝るとちょうど良くて、快適に眠れました。

どんな部屋か写真待ってます。

部屋の様子が分かる写真は残念ながらないけど、ろうそくの明かりで撮った写真を1枚載せます。息子が持ってるのは、ウロス島で買った葦船のモデルです。

星がきれいなのは、写真には撮れなかったでしょうね。

やってみたけど、やっぱり駄目でした。

良く眠れて良かったですね。

私と子供達はよく眠れたけど、妻は全然眠れなかったそうです。

顔など洗えましたか、村の人の顔の色は少し黒いですか。

顔は洗えませんでした。空気が薄く陽射しが強いので、村の人はよく焼けてて黒っぽいです。

タキーレ島にお別れ

4月13日(金)

翌朝、日の出を見ようと早く起きたけど、雲で見えなくて残念。朝食前に、娘と2人でまた別の方向に散歩に行って、虹を見ました。

朝食はパンケーキとコーヒーが出ました。それほど量はなかったけど、ようやくちゃんとした食事にありつけました。

午前中は、島の上へ上へと歩いて行って、島でたぶん2番目に高い丘の頂上に登り、そこにある遺跡(写真)を見ました。島を歩いているとあちこちに石で出来たアーチがあって、道はそれをくぐるようになっています。

宿に戻ると、おじさんが宿泊料を集めに来ました。これでやっとすっきりします。1人1泊10ソル($3)でした。ドルで払ったので、計算がややこしくてお釣りがなかなか戻ってきませんでした。おじさんが紙に計算したのを見ると、割り算の代わりに同じ数を何度も何度も引いた跡がありました。ペルーではあちこちで、お釣りをもらうのには苦労しました。

帰りの船は1時と2時半に出るのでどちらに乗ってもいいとのことでした。まだオフィスが開いてる時間に港に戻って明日乗る飛行機の予約の再確認をしたかったので、1時ので行くことにします。そうすると、昼食をゆっくり食べてる暇がないので、島のお店でバナナとトマトを買って、それをお昼の代わりにすることにします。他にも持って来たブドウやマンゴーがあるのですが、宿には水がないので、まだ洗ってなくて食べられません。

水がないのも不便でしたが、トイレも穴があいてるだけの所にしゃがむようになってて、これもなかなか大変でした。しかも、私と息子が今日はお腹をこわしてしまって、余計に大変です。

また石段を港まで降りて行くと、ガイドらしき人が「インカ・トラベルのツァーか?」と聞いてきました。「違うと思うけど」と言いながら船の切符を見ると「インカ・トラベル」と書いてありました。「1時の船は今日は出ないことになったので、悪いけど2時半ね。」とのこと。ガックリ。また石段を登る気はしないので、港で3時間以上待つことになります。

湖の水で果物を洗って、昼食代わりに食べました。お腹をこわしてる人が食べる食べ物ではないけど、他に食べる物がないのでしょうがありません。

娘はちょっと石段を登って来ると言って、しばらく帰ってこないと思ったら、何とまた頂上まで行って来たそうです。元気〜!

港には他のツァーの船もたくさんあって、1つまた1つと出港して行きました。自分達が乗る船がまだどれか分からないので、2時半が近づくとちょっと心配になって、いくつかの船のそばに行って「インカ・トラベル?」と聞いてみました。どれも違うと首を振って、中にはあっちのボートだと指差して教えてくれる人もいました。

2時半を過ぎてガイドらしき人が「さあ、乗れ〜」みたいなことを言ったので、うちもドヤドヤと乗りこみましたが、昨日同じボートで来た人は誰もいないようです。ひょっとしたら違うボートなのかもしれないけど、今日島を出られないと困るので、じっと静かにボートの中に座って出港を待ちます。

島の民族衣装を着たおばさんも1人ボートに乗ってきました。出港。ホッとしました。帰りの4時間は、うつらうつらしたり、時々お腹が痛くなるのをじっと我慢したり、ほとんど座ったままでした。島のおばさんは、もくもくと手編みでカラフルな布を作っていました(写真)。

暗くなる頃プーノの港に着いてまずトイレ。(ボートにトイレはありません。)ホテルまではタクシーを$1で乗って行き、顔を覚えてくれてたホテルの人は、すぐに前と同じ部屋の鍵をくれました。

夕食は、ガイドブックでお勧めの所に行って、久しぶりにおいしい食事にたっぷりとありつけました(写真)。

お腹壊した人も食べられましたか?

中華とペルー料理の両方がある店だったので、ワンタン・スープにしました。とてもおいしかったです。

娘ちゃんって本当にお兄ちゃんそっくりで頼もしいね。とっても楽しみですね。

頼もしいかどうか分からないけど、ほんと似てます。

先の事考えていたら、今している事が面白くないし、でも、やはり度胸というか、最後は何とかなる、と言う勇気が必要なんですね。

「最後は何とかなる」という気持ちはあります。それと裏腹というか、最悪の場合を考えて、その覚悟を決めておけば、たいていの場合はそれよりずっとましだから、落ち着いてられるみたいなところもあります。

予約の再確認

翌日はプーノから1時間くらいのフリアカという町からリマまで飛行機で飛ぶ予定です。この航空券は旅行に出発する前にNYから電子メールでペルーの旅行エージェント(ここなら信頼できるとペルーに行った多くのアメリカ人がお勧めのところ)に手配を頼んでおいて、アメリカからリマに到着した時に、リマの空港まで航空券を持って来てもらってそこで料金と引き換えに受け取ったものです。

その時にも念を押されたし、ガイドブックにも強調して書いてあるのですが、ペルーの国内線は、出発の1〜3日前に予約の再確認をしないと乗れなくなる可能性大です。

出発3日前にあたるのはクスコからプーノまで高原列車で来た日ですが、列車が遅れて、航空会社の電話受付が開いてる時間にはプーノに着きませんでした。そこで、その晩、ホテルの向かいにある旅行エージェントで、予約の再確認を頼んでおきました。その時は、翌日しておくから金曜日にタキーレ島から戻ってきた時にでも手数料を払ってくれと言われてました。でも、目の前でやってくれるわけではないので、手数料だけ取ってやってない可能性もなきにしもあらずです。

だから自分でもちゃんとしておきたかったのですが、出発2日前は早朝からタキーレ島へのボートに乗ったし、島には電話なんてないし、出発前日は、1時の船が出なかったので、やっぱりオフィスが開いてる時間にはプーノに戻れませんでした。

翌日の飛行機の出発は午後3時40分なので、午前中はどこか観光する時間があります。プーノの近くではシユスターニ遺跡というのがガイドブックによると面白そうなので、そこに行くことにしました。公共交通機関ではそこまで行けません。観光客用のツァーは午前中ウロス島で午後にシユスターニ遺跡というのが一般的なので、午後のツァーしかないようです。それでは飛行機に間に合いません。

ペルーに来て旅行エージェントはまだ一度も使わなかったのですが、この際しかたありません。ガイドブックで信頼できるプーノの旅行エージェントというのを調べると、なんと宿の向かいの最初に予約の再確認を頼んだところの名前が載っていました。

そこに行って、再確認してくれたか聞くとちゃんとしたと言います。明日の朝シユスターニ遺跡に行って、その後、余裕を持って1時くらいにフリアカの空港に着きたいと言うと、やっぱり都合のいいツァーはなくて、我家専用に1台ミニバンと運転手を用意して、うちがシユスターニ遺跡を見学してる間はそこでずっと待ってて、その後空港まで送ることになるそうです。ガイドも付けられるけど、我家はガイドのペースで回るのは嫌いなので、ガイドはなしにしてその分安くします。4人で120ソルと言うのを90ソル($26)まで値切って手をうちました。朝9時にホテルにミニバンが迎えに来てくれるそうです。

予約再確認の手数料(1人2ソル)と合わせて98ソル払いました。また100ソルから2ソルのお釣りをもらうのに、事務所のあっちこっちで2ソルを探しまくっていて時間がかかりました。どこに行っても本当に信じられないくらいお釣り用の小銭がないのです。だから小銭は貴重なので、お釣りをもらえそうなお店では、わざと大きな札を出して小銭をもらっておきます。

お釣がでないというのも不弁ですね。向こうではキャッシャーというかレジがないんですか?

お店によっては檻(おり)みたいなのの中にキャッシャーが入っている所もありました。そういう店では、まず買いたい商品を決めてレシートみたいなのをもらい、それを持ってキャッシャーの所に行ってお金を払うとレシートにスタンプをくれて、また元の所に戻ってそのレシートを見せて商品を受け取るようになってました。

今までずっと旅を良くして来たでしょうが今回は何を体験しましたか。勿論今までの記録でよくしたなぁと思いますが。自分では叉もう一つ上を行く何かを、掴んだんでしょうか。

いろいろあります。
☆ いいホテルやいい食事を求めてお金をかければそれだけいい旅行になるわけではないということを確信(笑)しました。
☆ 貧乏は気楽ということ。取られて困るような物をあまり持ってなければ、治安に不安がある所を旅行中にそれだけ気を使わずにすみます。今回ビデオや大きなカメラを持って行かず、ポケットに入るデジカメ1つだけだったのは大正解でした。
☆ 自分は、ハラハラするような事の後にうまく行った時の安堵感と達成感を旅の中に求めてるんだなと思いました。
☆ いつか行ってみたいシルクロードやチベットが一歩近づいたかも。

プーノの朝

4月14日(土)

翌日、朝食はホテルのそばにあるプーノの市場で、地元の人に混ざって食べようということになりました。

まず、活気と雑踏という感じの市場に入って行って、パンやトマトを買いました。市場の外の道端の屋台みたいなところで温かくした牛乳という感じの飲み物を売ってたのを、娘が試しに飲んでみたいとのことで1つ買ってみました。一口飲んでみるとおいしい!すぐに2杯目を注文し、そこの屋台に座ってパンも食べながら、またおかわり(写真)。1杯0.5ソル(20円しない)のお米が入った乳製飲料を温めたという感じの飲み物のファンになりました。

9時にミニバンが迎えに来るまで時間があるので、プーノの街の散歩です。ペルーの町はどこも中心に広場があってそこには教会があります(写真)。途中の公衆電話で航空会社に電話して予約の再確認をしようと思ったけど、地球の歩き方に乗ってた番号にかけると「現在この番号は使われておりません」みたいなことをスペイン語で言ってるようです。歩き方のもう1つの番号にかけると「ピー、ギャー」と音がしてるので、パソコンかファックスにつながったようです。今晩泊まるリマの宿も、目星を付けといたところに電話して空いてるか確かめようとしたら、どうも英語が分からない人が出てきて、すぐに切れてしまいました。

そろそろホテルに戻ろうと歩いてると、何と今日乗る飛行機の会社の事務所があるではないですか。英語はできない社員1人だけのそこの小さなオフィスに入って、予約の再確認を頼むと、電話をかけてくれたのですが、今どうもシステムがダウンしてるらしくて、もうちょっと待ってくれとのことです。ぎりぎりまで待って、何度か電話してくれたのですが、まだだめ。もう時間切れ、後でやっとくからとのことで急いでホテルに向かいます。

先にホテルに向かっていた3人は、さっきの屋台で飲み物をまた飲んでたので、ホテルには同時に着いて、急いでチェック・アウトして、ちょっと待たせたミニバンに乗りこみました。

写真をみてると本当に行きたくなります。ゆっくりと歩いて散歩したいな〜って所が沢山ありますね。

そうそう、旅行中に散歩したくなるような所というのは、後で印象に残るいい所が多いですね。

シユスタニ遺跡

ミニバンが出発する寸前に、手配してくれた旅行エージェントの人がオフィスから出て来て、もう一度航空券を見せてくれと言います。渡すと、一度オフィスに持って行った後、返してくれました。ひょっとしたら、今の今まで予約の再確認を実はしてくれてなくて、今日はミニバンを借り切ることになったりしてうちもいいお客さんになったので、やっとしてくれるつもりになったのかもしれません。あるいは、ちゃんとしてくれてたけど、もう一度念を押してくれるためなのかもしれません。

ミニバンの運転手は感じのいいお兄さんです。プーノの街を見下ろせる所で写真を撮れるように車を停めてくれたりして親切です。1時間くらいのドライブで、シユスタニ遺跡に着きました。

我家が2時間くらい遺跡を見学している間、運転手は駐車場でずっと待ってることになります。遺跡を歩くのにリュックを背負って行きたくはないので、ほとんどの荷物は、車に置いていくことになります。パスポート、航空券、クレジットカードなどのアメリカに帰るのに絶対に必要な物や貴重品は全て身につけていますが、運転手がリュックを持ち逃げしない保証はありません。今日のミニバンの料金は全額、昨夜のうちに旅行エージェントに払ってしまいました。後で考えると、半額は最後に空港に着いてから渡すことにすれば良かったと思いましたが、もう手遅れです。

皆には、なくなったら絶対に困る物は、遺跡見学の間も持って行くようにと朝のうちに言っておきましたが、結局、飲み物、カメラ、貴重品以外は全て車に置いて行きました。運転手を信用するしかありません。遺跡に向かって歩きながら時々振り返って、駐車場にちゃんとミニバンがいることを確かめました。

湖に突き出た半島の中に遺跡があります。湖畔の草原には牛が放牧されています(写真:今回の旅行の写真の中で、これが一番のお気に入り)。遺跡は、石を円筒型に積み重ねた昔のお墓の塔です。いろんな形や色があります。中に入れるようになっている塔もありました。

ふと気付くと、ミニバンがさっきの場所にいません。それらしきミニバンが、湖の反対側の道路を走り去っています。退屈だから、近くの村に何か買物にでも行ったのかもしれません。心配させないように、皆には黙ってました。

遺跡をくまなく歩いて、湖に浮かぶ感じのいい島を眺めたりしながら、半島を1周してまた駐車場を見下ろせる所まで戻ってきました。やっぱり、ミニバンの姿は駐車場にはありません。「まだ約束の時間までだいぶあるから、何か買いに近くの村にでも行ったんじゃない?」「リュック、やっぱりとられちゃったね。」いろんな意見が出ます。ミニバンらしい車がこちらに向かってくると、その度に双眼鏡で見て確かめます。「あれは違う。」

不安は心の奥に押しやって、まわりのとっても感じのいい景色をのんびりと眺めて待ちます。湖の反対の方では、半分湖に突っ込んでる車やバスがいます。洗車でもしているのでしょう。そのうちの1台が洗車を終えたのか、こちらに向かって来ました。また双眼鏡で眺めます。白いミニバンです。横にはオレンジにラインが入っています。駐車場に停まりました。運転手は緑のジャケットを着ています。間違いなさそうです。戻ってきてくれました。ちょっとでも疑って悪かったです。

晴れ晴れとした気分で、駐車場まで降りて行きました。

写真の色が本当きれい!あの通りの海の色、空の色?

あの通りの色です。空気が澄んで薄いせいか、景色はいつもくっきりとしています。陽射しの強さも加わって、日向と日陰のコントラストが大きいです。

ずっと長袖姿ですね南アメリカ、と言っても標高ある土地だからですね、寒くて堪らん、と言う事はなかったんですかね。

かなり防寒対策はしていったので、寒過ぎることはありませんでした。

買物、農家、空港へ

駐車場には、ずらりと2列に並んで、おみやげを売るおばさん達がいました。いろんな物を売ろうと、日本語まじりで元気な声がかかります。

リャマに似たアルパカという動物の毛で出来た製品がたくさんあります。これはペルーの特産品なので、おみやげには良さそうです。何と、手袋は$1、カーディガンは$5だそうです。なかなか柄もいいのがありそう。妻がそれぞれ1つずつ買いました。もともと安いけど、これ以上は値切ろうとしても駄目でした。

男性用のアルパカのセーターも、なかなかいい柄のがあって、これは$10。1つ買いました。脱いだり着たりする時に、中の毛糸が引っかかることがあるので、やっぱり作りはあまりしっかりしてないのかもしれませんが、まあこの値段以上の価値はあるし、今までペルー旅行の記念になるものは何も買ってなかったので、いい買物が出来ました。

子供達は友達へのおみやげに、小さなオカリナを6個で$2。最後に、息子が石を投げるためのヒモみたいなのを欲しがって$1で買いました。

またミニバンに乗って出発。現地の小学生くらいの女の子が1人、途中までヒッチハイクしていきました。空港に向かう前に、運転手が途中の村の農家の見学に寄ってくれました。そこでは、農家の生活のいろんな側面、食べ物や畑で使う道具や織物を作る道具や工芸品など、愛想のいいおじさんが見せてくれました。印象に残ったのは、まるで泥が固まった石のような物が食べ物だとのことで、ちょっとかじってみたけどやっぱり泥のような味がしました(笑)。それから、じゅうたんを作るところ(写真)を初めて見ました。子供達も、じゅうたんが本当に手をかけて作られていくところを実際に見て、かなり感激してました。

いろいろ見せていただいた後、手作りの工芸品などを売ってくれるのですが、買ってまで欲しい物はありませんでした。何も買わなくて、ちょっと悪いなあとも思いますが、でも農家のおじさんは、最後までニコニコしながら見送ってくれた(写真)ので、気分良かったです。

そこからフリアカの街を抜けて、約束の午後1時少し前に空港に着きました。 

じゅうたんもペルシャじゅうたんってとても高いけど、本当に手作りで高いのも納得しますね。

ほんと、そう思いました。

リマへ

まだ出発まで3時間40分もあるのに、誰もいないカウンターにもう10人以上の人が並んでいました。しばらくして職員がやってきてチェック・インが始まります。到着した後にさっさと動けるように、リュックは今回の旅行ではいつも機内持込にしています。大きな荷物だから預けさせられるかなあと思ったけど大丈夫でした。チェック・インも問題なし。やっぱり英語が通じないので、窓際の席をリクエストするのに絵を描いて見せたら笑ってたけど通じました。

空港のレストランで、たっぷり昼食を食べました。もう一度、今晩のリマの宿に電話します。この宿は、出発前に電子メールでペルー国内線の航空券の手配を頼んだ旅行エージェントがやってる宿で、場所的にも値段的にも安全面でも良さそうです。オランダ人のご主人とペルー人の奥さんの家族が経営しているようです。ご主人には、アメリカからリマに到着した時に、空港まで航空券を持って来てもらったので一度会っています。

今度は電話には奥さんが出たようで、ご主人は今外出中とのこと。今晩、部屋は空いているそうです。空港まで迎えに来てもらえるか聞いたら「主人が帰って来るまで迎えに行けるかどうか分からないので、もう一度後で電話してくれますか?」と言われ、それに「うちが迎え代にいくら取るか知ってますか?$15も取るんですよ!」と言ってました。$15なのは知ってたけど、奥さんがそれを高過ぎると思ってるような雰囲気が伝わってきたのがおかしかったです。「それなら、自分でタクシーで行きます。」ということにして、ホテルの住所を確認し、タクシー代は10〜15くらいだと聞きました。

リマまでの飛行機は、Tans航空という会社のもので、これはペルー軍が経営していて、古い恐ろしげな機体を飛ばしていると聞いていたけど、そんなことなくて、思ったより立派な機体だしちゃんと定刻に出発しました。

でも、離陸の時の振動で、我家の座席の所だけ頭の上から酸素マスクが落ちてきたのは愛嬌です。右側の方が山が見えるかなと思って、チェック・インの時の絵では右側をリクエストしたつもりだったけど、左側の席になってました。でも、これが正解。離陸してすぐに、何と、プーノの街、タキーレ島、シユスタニ遺跡のある半島が眼下に見え、写真も撮れました。添付写真の左の方、伊豆半島みたいなのがシユスタニ遺跡の半島です。

アレキパに一度着陸して燃料補給の後、再度飛び立ってリマに向かいます。その度に酸素マスクが落ちてきます。ちゃんとサンドイッチや飲み物の機内サービスもありました。ナスカの近くも通るのですが、こういう飛行機からでも地上絵が見えるという話しは聞いたことないし、雲もあったし、やっぱりナスカは分かりませんでした。

リマの空港ではまたどっとタクシーの客引きに声をかけられましたが、それは通り過ぎて、もう一度、宿に電話しました。さっき電話で聞いた住所と、ガイドブックに書いてある住所が違うので、確認したかったからです。もう一度しっかり聞いて「タクシー代は$10〜15くらいですね?」と確認すると、「違う、違う、10〜15ソルくらいです。」とのこと。ドルとソルではかなり違います。紙にホテルの名前と住所を書いて、建物の外のタクシー乗り場まで行って、その紙を運転手に見せながら「10ソル」と言うと、最初に声かけた運転手は立ち去って、他の運転手が自分が連れてってあげると、自分の車の方に向かって歩きだしました。その車は、タクシー乗り場じゃなくて、駐車場の中に停めてあり、しかも他のタクシーのようにTAXIと書いた札がウィンドウに付いてません。大丈夫かなあ?と、ちょっと思ったけど、他の運転手と同じ制服を着ているので、信用することにします。

今までペルーを旅行してきた場所と全然違って、リマは大都会で、スーパーやファースト・フードや家電製品の店や、何でもあってアメリカとそう変わらない景色です。どんどん暗くなって、何車線もある大通を離れ、何となく寂れたような感じの場所に入ってきました。ホテルのある通りを探してるけど、なかなか見つかりません。しばらく走りまわった後、運転手は車を停めて、地図を引っ張り出し、ホテルのある通りを探しているようです。「この名前の通りは、ここにあって、ここから先は通りの名前が変わるから、この辺りにあるはずだけど、そこを走ったのにホテルはなかった。」と言ってるようです。住所は2度も確認したので、間違ってるはずはありません。「とにかくこの住所だから、ここに書いてある番地を探してそこに行きたい」と言うしかありません。

また出発して、目的の通りに来ると、目指す番地はさっき走った範囲の外側だったようで、この辺りは一方通行の通りが交互に並んでいるので、また大廻りしてやり直しです。ようやく番地的には目指すところにやってきました。でも、ホテルらしき物は見当たりません。私が車を降りてその番地の建物を確認しに行くと、塀の中の扉の上に、ツタに隠れるようにして小さくホテルの名前が書いてありました。ホッ。

運転手は、これだけさんざん走りまわったから15ソル欲しいと言います。最初に正しいアドレスを見せて10ソルだと確認して出発したのだから、こちらはそれ以上は出したくありません。でも、10ソルちょうどの小銭があるかなあ。妻のと私のと財布の中のソルをかき集めると、何とか10ソルありました。運転手もあきらめてそれだけ受け取って去って行きました。

そういう騒ぎを聞きつけたのか、塀の中の扉が開いて奥さんが出てきました。

毎回、お兄ちゃんの当然の事ながら慎重な用心深い行動に感心せずにはいられません。自然と身に付いた事だとは思いますがさすがですよね。どういう言葉でこの感心する気持ちを伝えたらいいのか・・・・。とても同じ血が流れているとは思えません。

ひょえー、慎重なA型と大雑把なO型の違いでしょうか。A型から見るとO型の大雑把さって魅力的なんですが(笑)。

良く撮れてます。伊豆半島みたいな形。その通りにみえます。あのすさまじいタキーレ島もこんな形なんですね。

シユスタニ遺跡の半島のあるのは、ティティカカ湖とは別のもっとずっと小さな湖で、あの写真にはタキーレ島は写ってないんです。タキーレ島は別の写真なのですが、ちょっと分かりにくいので添付しませんでした。

リマの宿

建物の中は、バーカウンターのあるラウンジ、ダイニング、パティオと贅沢に共用スペースがあり、我家が泊まる部屋(写真)も広々として4つベッドがあって、予想以上にとってもいいところです。今までの宿とは違う雰囲気に、息子が「こんなところに泊まって大丈夫なの?」みたいなことを言うのがおかしかったです。でも、これでも1人1泊$15で子供は2人で1人分にしてくれました。

ちょっと歩いたところの市場のまわりにいくつかレストランがあるとのことで、そこまで夕食に出かけました。タクシーで走ってる時には、この辺りは何となく寂れた感じがしてたのですが、暗くなって歩いても安全とのことで、安心しました。

市場はもう閉まってましたが、まわりを一周した後、シーフードが食べれるレストランに入りました。リマに来たらぜひ食べたかった料理「セビッチェ」が食べられます。生のシーフードをマリネにしたようなものです。レストランと言っても、地元の人が利用する食堂という感じの所で、当然英語は通じず、セビッチェを注文したら何かいろいろと言ってきたのですが、全然分かりません。何かがどうだけどいいか?みたいに聞いてる雰囲気です。セビッチェに入れるシーフードを何にするかと聞いてるのかなあと思って、いくつかスペイン語で知ってる単語を言ってみたら、肩をすくめて、「普通はそんな風には食べないけど、ご希望ならまあそれもいいでしょ。」という雰囲気的でした。

今まで高山病にならないように、ずっとアルコールはなしでしたが、ようやくビールも飲めます。気温も高くなって、Tシャツ1枚でちょうどいいくらいなので、冷たいビールもおいしく飲めます。

出て来たセビチェ(写真)は、大正解でした。おいしいです!リマにいる間は、毎食セビチェが食べたいと思いました。でも、子供達にはあまり人気がなくて、特に娘はほとんど食べませんでした。

宿に戻ると、もうご主人も帰って来ていたので、明日、日帰りでナスカの地上絵を見に行けるようなツァーはないか聞いてみました。でも、1人$300以上するし、もうこの時間では明日のツァーはどっちみち難しいとのことで、ナスカはあきらめました。

明後日は空港に出発の3時間前には着いていた方がいいとのことで、朝5時には出発することになります。その時間に合わせて朝食も出してくれるそうで親切です。その朝はご主人も空港に行くから乗せてってあげられるかもと言うので、$15かかるのか聞いたら、タクシーの方が安いし、その時間でも走ってるタクシーを停められるから、停めるのを手伝ってあげるとのこと。空港からここまでタクシーが10ソルだったと言うと、驚いていて、自分でもそんな値段じゃ来れない、普通は15ソルくらいかかると言ってました。貧乏バックパッカーを目指してる旅なので、とっても嬉しいことでした。 

ナスカの地上絵はもう良いでしょう。これだけの思いきった旅が出来たんですから・・。でもそこまで行ってやはり残念?

ナスカは出発前からまず行けないだろうと思ってたので、それほど残念とは思いませんでした。行くならやっぱり、上空からも地上からもゆっくり見たいです。

毎日思い出して書いてるんですか?それにしては事細かによく書けてるなぁ。日記見ながら書いてるんですかね?あれだけ考えて書くには相当時間がかかりそうですね。

日記はほとんど見ないで、思い出しながら書いてます。勢いで書くので、そんなに見かけほど時間はかかってないです。

リマの一日

4月15日(日)

朝起きると、娘が熱があって食欲もありません。ホテルの朝食を食べた後、昨日の市場まで娘が食べれるヨーグルトやトマトを買いに行きました。市場の中は、たくさんの小さな店が並び、すごい活気です。

ホテルの人に、熱があって娘が一日中部屋で寝てるから、ベッドメーキングなどはしなくていいことを伝えて、午前中は残りの3人で国立人類学考古学歴史学博物館というたいそうな名前の所へ行くことにしました。ホテルの前で、小さな安そうなタクシーを停めて、博物館の名前を書いた紙を渡し「3ソル」と言うと、最初勘違いして別の博物館に行ったけど、その後、目的の場所まで3ソルで連れてってくれました。

博物館には、ミイラ(写真)や穴をあけたり変形させた頭蓋骨が展示してあって、息子には印象深かったようです。時代順に展示してあって、インカの所に来ると織物が現われ、その後スペインが侵略してきて、スペインとインカとの武器の差が一目瞭然でした。

お昼は、「地球の歩き方」に紹介されていた、博物館から歩いて行ける所にあるセビッチェのおいしいレストランに行きました。またセビッチェを注文した後に何か聞かれました。今度は口から火を吹く手振りで分かりましたが、どれくらい辛くするかと聞いてるようです。タコ、魚、エビ、貝、いろんなのが入ったミックスのセビッチェは、またまた最高においしいです。食べたすぐ後からもう夕食にまたセビッチェを食べるのが待ち遠しい感じ。

このレストランのオーナーなのか、途中で日本人のおばさんが出てきて、いろいろと話しをしました。フジモリ元大統領は、今さらペルーに戻ってきてもすぐに殺されるだろうなんて言ってました。

レストランの向かいの大きなスーパーで娘が食べられそうなお昼などの買物をして、帰りは3ソルじゃ2台のタクシーに断られたので、4ソルでホテルまで戻りました。

少し休憩した後、午後はリマの中心の、大統領府(写真)もあるアルマス広場までまたタクシーで行きました。カテドラルは日曜日は礼拝者専用で入れませんでしたが、近くのサン・フランシスコ教会に行きました。ここはガイドの案内で見るようになっていて、一通り教会を見た後、地下墓地(カタコンベ)へと入って行きます。そこは、地下3階まであり、見学できる1階部分だけでも2万5千体もの骨(写真)があるそうです。息子がまたすごいものを見たと興奮していて、娘が見損ねたことにとっても同情していました。

しばらくリマの繁華街を歩いてから、またタクシーでホテルに戻りました。運転手がまた場所を間違えたので、随分遠回りしてホテルに着いた時には、最初の約束の8ソルじゃなくて10ソル欲しいと言い出しましたが、小銭を掻き集めたら7.9ソルしかなかったので、それで我慢してもらいました。

娘のためにティーをもらったり、また市場に食べれるものやアスピリンを買いに行きました。後でまた夕食のためにタクシーに乗る小銭がないので、トマト1ソル分買うのに20ソル札を渡すと、それをくずすために市場のおばさんはあっちこっちの店にあたってくれて、10分くらいかかってようやくお釣りが戻って来ました。

夕食は、リマ最後なので、浜辺のシーフードがおいしいという有名なお店までタクシー10ソルで行きました。思ったよりも高級で、Tシャツで来たのはちょっとまずかったですが、まあお客さんはまだ少ないし、せっかくだから入ることにします。値段はアメリカのちょっといいレストラン並で、メニューも英語でドル表示です。妻がこんないいレストランに初めて連れて来てくれたなんて言ってます。残念なことに、ペルーのシーフードのレストランなのにセビッチェがなくて、3人それぞれ別の他のシーフードを頼みました。

私は、ペルー名物のピスコ・サワーというカクテルを頼み、妻は、いつかどこかのビールコンクールで2位を取ったというクスケーニャというクスコのビールを頼み、どちらもおいしい味でした。砂浜の上に突き出すように建てられたレストランで、波の音が始終聞こえています。料理の方も、さすがにおいしかったです。高級レストラン即おいしいとは限らないけど、ここは本当に味は一流でした。最後にセビッチェを食べ損ねた残念さもおかげでさっぱり消えました。

帰りは、レストランの外で待ってるタクシーは20ソルだと言うので、とんでもないと自分達で道路でタクシーをつかまえるつもりで歩き出したら、どうもここは停車禁止の自動車専用道路みたいになっていて、あまりタクシーも走ってないし、走ってるのは停まりそうにないので、恥ずかしいけどまたレストランに戻って、さっきのタクシーで20ソルでホテルまで帰りました。

明日の朝は早いので、宿代を先に払うと、思ったよりずっと安くて4人で1泊あたり$35でした。

「セビッチェ」とやらは、いか?白身魚?中身は何ですか。左は豆のような物?海草のような物も見える

いろんなシーフードが入ってます。ビールのつまみに豆を炒ったのも付きました。お昼に行った店は、「歩き方」によるとウニのセビッチェもあると書いてあったけど、出て来た日本人に聞いたら、最近はエルニーニョのせいでウニが全然採れなくなって、今はウニのセビッチェはやってないとのことでした。

帰国

4月16日(月)

朝4時に起きて、朝食をたっぷりいただいてから、5時にホテルの人が停めて値段も12ソルと運転手と交渉してくれたタクシーで空港へ向かいました。

チェックインも行列なしで問題なく、席が2人ずつで分かれたけど、窓側も2つ取れました。娘が熱があることを伝えて、他の乗客より先に飛行機に乗せてもらいました。

定刻少し前に出発。帰りはニューヨークまでの直行便で7時間半くらいです。娘は昨日の午後から熱に加えて下痢もしてて、飛行機の中でも本当に辛そうでした。

NYの空港で、あらかじめ娘のために車椅子を用意してもらい、飛行機を降りたところからずっとエスコートの人が付きました。検疫は下痢してることで、何か問題あるかなと少し心配でしたが大丈夫でした。

さて問題の入国管理です。実は、4月30日でアメリカ入国ビザの有効期限が切れます。会社から延長の申請はしてあるのですが、ペルーに出発するまでにはまだ結果が出てませんでした。今日は4月16日。有効期限がすぐなので、何か問題があった時には会社の法務の担当者にも電話連絡が付くように番号を控えたり、会社からビザの延長申請をしていることの証拠に、社内の電子メールをプリントしたのを持って行ったりしていました。

何も言わずにただパスポートとビザを手渡して、何か言われるのを待ってましたが、係官は、ビザの番号をコンピュータに通したら、たぶんシステム上は、既にビザの延長が認められたデータが入っていたのか、黙って2004年4月15日までの滞在許可のスタンプを押してくれました。ホッ。でも、その後、先週になってようやく会社からビザの延長が認められた旨の書類が届いたのですが、それによるとビザは2003年4月までになっています。どうも、入国係官が勘違いして1年余計に許可しちゃったみたいです。

もう1つ、入国にあたって心配がありました。何と、ペルーに出発する2日前になって、アメリカ以外のパスポートの持ち主がペルーからアメリカに入国する場合は、黄熱病の予防接種のイエローカードが必要だという情報が入ったのです。驚いて、急遽調べたら、アメリカパスポートかどうかに関わらず、ペルーの中の黄熱病にかかる恐れがある地区に行った人は、イエローカードが必要だとのことです。その地区には、クスコやティティカカ湖も含まれていましたが、リマやナスカは地区外でした。イエローカードはほとんどチェックされないという情報もあったので、出発前日に予防接種に行く暇もないので、いざとなったら、ペルーはずっとリマに居ましたということにすれば、大丈夫だろうと思って、イエローカードは手に入れないまま出発したのでした。

口蹄病の心配からか、農場に行ったか?とは聞かれましたが、ノーと答えた後は、幸い、イエローカードの提示を求められたり、ペルーのどこに行ったか聞かれたりすることなく、入国手続きは終わりました。これで、後は家に帰るだけです。

空港の長期旅行者用駐車場に車を置いてきたので、そこまでのバス乗り場までエスコートの人は連れて行ってくれました。バスもすぐに来て、車も問題なく空港を出発。娘がずっと大変で、途中で3度くらい休みました。

家に帰って来て、しばらく休んでからも娘の様子が心配なので、係り付けの日本人の医者に電話するけど、もう時間外なのでつかまりません。AIU保険に電話したけど、マンハッタンとか遠い医者の電話番号を教えてくれるだけです。近所に24時間急患を受け付ける大きな病院があるので、結局、そこに娘を連れて行きました。

下痢で脱水症状だったので点滴を3本も打って、いろいろ検査した結果、ヴィールス性のものではなく、心配いらないとのことで、翌日は休んで、調子が良くなれば翌々日は学校にいってもいいとのこと。ようやく安心して午前1時頃病院を出て家に戻ってきました。

娘は結局学校は一日休んだだけで復帰できて、もちろん今はもうすっかり元気です。

総合的にペルーは今まで旅行したところと比べてどうですか?

高山病と治安の心配があったのが、今までの旅と一番違うことだったかもしれません。それを乗り越えてうまく旅が出来たことで、とっても達成感がありました。

でも本当に黄熱病の危険がある所に行ったんですよね。聞くとやはり命懸けの旅だった気がしますね。イエローカードも貰わなくても良いわ、と判断してどんとコイ、とばかりに出かけたんですかね。

いえいえ、実際に出発前にいろいろと調べた所、現実的に黄熱病にかかる可能性はほとんどなくて、黄熱病の予防接種をすることの意味は、「予防」というよりは「アメリカ入国の際の規則だから」といった感じでした。だから、予防接種を受けて行かなかったことで、黄熱病にかかるかもしれないなんて心配は全然しなかったし、娘が調子悪くなったのも、黄熱病かもとは全然思わなかったです。心配は、入国の際にイエローカードがないから入国できない、なんて万一言われたら困るなあという心配だけでした。そういうことなので、「命がけの旅」なんてことはないです。そんな風に出発前に思うようだったら、そういう旅に家族連れで出かけたりしないです。

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